再出発の汽笛

ボー!!
今日も瀬戸内海を往来する船たちの汽笛が尾道水道にこだまする。
いつもなら俺はスーツに着替え、トースト一枚を頬張り、朝の支度を慌ただしく済まして専光寺通りを一気にかけ降りていた。
俺の住まいは専光寺通り沿いのT字路に建つ昭和の雰囲気が漂うオシャレな洋館の一室だ。
俺は関西の大学を出た後、尾道市の観光課に務めている。毎日、会議、視察、そしてデスクワークの連続だった。しかし地域に携わるという点で瀬野は充実感を感じているのが実際の感想だろう。
今日は盆休みのうちの1日だ。俺はこの日ずっとテレビを見たり家事をこなしたり海をぼんやりながめていた。
昼頃だろうか、スマホのバイブが机の上で振動音を響かせる。 液晶には大学時代の親友、八本木亮の名前が打ちし出されていた。
「おい! 瀬野! 今駅前にいるんだけど、迎えに来てくんない?」
「おい! どこの駅前だよ!」
「尾道に決まってんじゃん。」
その瞬間、せすじが凍るような感覚を覚えた。何故あいつは俺の就職先を知っていたのか……。誰にも言っていなかったはずなのに……。
俺は夏の坂道を冷や汗をかきながら一気に下った。シャツがジトッと湿っていくのがわかる。俺は自転車で駅へ昼下がりの海辺を駆け抜けた。


「よお!瀬野。卒業以来か。」
八本木は駅の改札口に爽やかな出で立ちで立っていた。
「なんでお前が俺の就職先知ってるんだ?」
「まぁ、そこは色々と、な。まぁとにかくせっかくの再会を祝して一杯やろうぜ!」
そういって八本木は一升瓶を取り出して見せた。
俺はため息をついて家に案内した。


「散らかってるけど許せよ。」
そう言って俺は八本木を部屋に入れた。
「相変わらず散らかってんなー。」
「文句あるならここで酒飲むな!」
と、一緒に卒業した同期の進路、教授の思い出話、八本木の調子に乗りすぎた話や俺と八本木で増水した鴨川デルタに飛び込んだ話で盛り上がった。
旧式のクーラーがささやかな冷気を酒で火照った頬に当てる。
ほろ酔い加減になった頃には瀬戸内海はオレンジ色にキラキラ輝いていた。
「そういや、坂の上眺めよさそうだな」
いきなり八本木が真面目な顔して言った。
「おいおい。景色は市役所の観光課として保証するぜ。今の時間なら夕日が海に照らされて綺麗だと思うぜ!」
酒が入っているためか少々調子に乗った感じで俺は言った。
「そうか。じゃあ登りたいな。」
「おいおい。何そんな真面目な顔してんだよ。お前らしく……そういうことか。わかった。」
俺はその八本木の顔を見て一目で何が話されるか分かった。
俺が誰にも言わずにこの地に逃げてきた理由についに向き合う時が来たのだと。
「もう、逃げきれないか……。」


坂を登る途中は俺も八本木も何も喋らなかった。八本木の醸し出す雰囲気に酔いもすっかり醒めてしまった。
坂に林立する寺たちを陽光が海面に反射してオレンジ色に染めている。
坂を登って30分くらいたっただろうか、いやもっとかかったかもしれない。
ロープウェイの最終便がちょうど出たところだった。
展望台の横には恋人の聖地と書かれた看板と南京錠が大量にかかっていた。
「たぶん、お前もわかっているとは思うが……」
八本木が俺にしんみりとした顔して言う。
「あぁ。恵美のことだろ。」
「いつ、どうなっても俺は知ったこっちゃないが…お前に後悔だけはして欲しくない。はっきり言うと、もう長くないらしい。」
俺の視界がだんだんオレンジ色にぼやけてくる。同時に走馬灯のように糸崎恵美との記憶が流れ出した。
糸崎恵美とはサークルで知り合った。
最初のうちは友達だったがだんだん互いに意識しあい、付き合った。互いの下宿先にもよく泊まり、それなりの関係を築けたはずだった。でも本当は違った。
付き合う中でだんだん俺が悩むようになり関係が重くなった。そこに耐えかねたんだろう。いつの間にか、俺の部屋から彼女のものは消えていた。無言の宣告だった。それからしばらくしてからだった。恵美が入院したと聞いたのは。しばらくは見舞いに行ったがその度に面会を拒絶されてしまった。
だから俺は過去捨てて新しく全て再出発することにした。
この地で。

「会いに行け。」
八本木のその声でハッとした。
「お前、後悔するぞ!いつまでそうやっていじけているつもりだ!また後悔するぞ!あの時気づいていれば!はもう通用しない域なんだよ!」
そう言われると俺は黙ってうなだれた。
何も言えなかった。ただ聞こえるのは八本木のため息と汽笛の声だけだった。
「行かない。もうケジメをつけたんだ。さっさとホテルに戻れ。」
「行くと言うまで戻らない。あと、お前は逃げてるだけだ。再出発本当にしたいなら向きあえよ!自分の全てと!」
俺はやっぱり会う気になれなかった。恵美の最期に立ち会えないのは確かに後悔すると思う。でも同時に自分が拒絶されてしまうことへの恐怖の方が大きかった。
「もう一回言っておくが逃げることと再出発することは違うからな。」
そう言って八本木は俺に背を向けて坂を下りだした。
「待て。そこまで言われて行かないヤツじゃないって知っててやってるだろ。」
俺は八本木を睨みつけて言った。
「さぁな。でもここに京都までのチケットはあるぜ。」
そう言って八本木は夕日に向かって歩き出した。
「そうだな。もう逃げきれないか…」
瀬戸内海を行くフェリーの汽笛が心地よく聞こえる。

今日も瀬戸内海を往来する船たちの汽笛が尾道水道にこだましている。
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