帰宅
                                 雨崎ちひろ

 友人に話したところ、わざとらしく声を上げて笑った。それから少しだけ考えて、「だったら旅行にでも行かない?」と言った。答えを渋ったのは、そいつがゲイだからじゃなく、有給を取れるかどうか分からなかったからだった。翌日勤めの会社に了承を得てようやく、「気晴らしくらいにはなるか」と返答し、友人――圭一が安かったと広島近辺の旅館を薦めたので、俺たち二人は一泊二日で岡山に旅行することになった。
 きっかけは平凡だ。同棲してる彼女と喧嘩してアパートを追い出された。ほんの些細な理由で、買ってきたシャンプーの種類がどうの、玉子焼きの味付けがこうの、する前のやり方があれだの――よくある話だったけれど、結局俺は帰れなかった。
 彼女は怒っていたし、俺も怒っていた。どっちが悪いかなんて決められないくらいに心底どうでもいいことだったから、尚更子供じみて意地を張る。俺も彼女も二十四なのに。
 笑い話のつもりだったから、実際笑われて、内心ちょっぴりホッとした。圭一とは大学からの付き合いだからそう長くもないのに、気を遣われたのかなとも思ったが、隣の席で愉快に一昨日どんな男と遊んだかを語るのを聞くと、考えるだけ馬鹿らしくなってくる。
「それで、広島ってなにがあるんだ」
「えっと、さあ? まぁ行けばきっとなにかはあるよ」
「なにかはあるだろうけど……まぁいいか」
 旅行するのに計画一つ立ててやしない。そんな無計画さこそ、俺たち二人の共通点だった。
「そう言えば、家追い出されたんだろ、どこ住んでるんだい?」
 圭一が聞く。
「とりあえずビジネスホテル」
「ホテルって、高いでしょ」
「高いよ。早くなんとかしねぇと、ヤバい」
「それは……ヤバいね」
「あぁ、かなりヤバい」
 実際、帰る家がないというのは深刻な問題だった。仕事を終えても行く当がないというのは、諸々の疲れというよりむしろ、中心にあった軸が消え失せてしまったような、迫り来る不安感と焦燥感、そして言いようのない倦怠感があった。
 どうにかしなければいけない。そして、どうすればいいのかも、よく分かっていた。
 それでも、俺は刻一刻と襲いかかる感情に対してやはり子供っぽい怒りを感じるだけで、現実にどう行動するかまでは、あまり考えないようにしていた。とても分かりやすい逃避だった。窓の外から見える線になった風景をよそに、悪い気分はしていなかった。
 本当にこのまま逃げられないんだろうか、それとも案外タッチダウンを決められるんじゃないか。バスの速度に追いつけず後方へ飛んで行くガードレールの姿に、窓なんて開いていないのになぜか、風を切る感覚を覚えずにはいられなかった。
「ともかく楽しもうよ。せっかくの旅行なんだから」
 その言葉が免罪符にはならないことを噛み締めつつも、圭一の明るい調子に乗せられて、これ以上深く考えないよう、酔わないように、前を向いた。


中略。(バスに揺られ、広島焼きを食べ、宮島行きのフェリーから海を眺め、厳島神社を廻り、圭一が体格の良い外国人観光客に声を掛け、写真を撮り、鹿がいて、海が綺麗で、夕暮れ前に旅館に入って、部屋でゴロゴロして、あるいは浴衣を着て散歩に出たり、その他諸々、エトセトラ&エトセトラ……)


 ぼやけた視界、空気の色をした水分質の湯気が向こう側を塞いでいた。
 風呂椅子に腰掛けて熱いシャワーを顔いっぱいに浴びる。タオルに据え置きのボディウォッシュを出して泡立てていると、隣に圭一がやって来た。
「いやぁ、今日は楽しかったねぇ」
「そうだな、お前もお疲れさん」
 それからしばらく、お互い無言のまま体を洗う。
 圭一の方に目をやっても、気持ちよさそうに足の指先まで丁寧に拭くだけだった。細く真白い指先がなにかに触れ掴む度に、俺とは違う世界を感じさせる。
 そして、そんな何気ない自分の行為に、嫌気がさした。友人として、一人の男として。タオルを力いっぱいに絞った。やっと、水が一滴も溢れなくなる。
「……俺、先に入ってるよ」
「うん」
 風呂はいくつもあったけれど、なんとなく、これと言った深い感情はなしに、俺は外にある露天風呂に入った。浅めの岩盤で、浸かっても肩が少し出てしまう。晩夏のほんのり肌寒い夕暮れの気温、風が吹き、気持ちよく感じた。
 疲れが解れて消えていく。それは今日一日の疲れだけではなく、これまでの、人生そのものの疲れや苦悩なんかも一緒になって、ぼんやりと霧散していくようで、それがとても心地良いこと自体に、俺は別の気苦労を背負ったような感覚まであった。
 それでも、お湯は温かく、風は爽やかで、周りに並ぶ樹々が靡く、緑色の葉が一枚落ちる、ひらひらと、浮き、揺れる。腕を後ろに回して凭れ掛かり、顔を上げる。すると、空が見えた。絵の具の水色と白色を溢したような淡く、それでいてどこか明瞭な夏の終わりの空。それと、哀愁の色にしたような濃い、とても濃い橙色の夕焼け空。
 空の色はどこまでも高く、そして移ろっていく。東京と繋がる景色の流展は少し切なく、けれど空に感情はなく、結局は眺める俺の心の移ろいそのものだった。
「…………あぁ」
 カラリと扉が開き、タオルを腰に巻いた圭一が入ってくる。
 圭一は初め、とても静かにタオルを下ろし、柔らかに微笑んだ。それからなるべく音を立てないようゆっくりと湯船に浸かる。
 そうして極自然に、俺のすぐ隣まで、近づくのだった。
「…………」
「…………」
「温かいね」
「あぁ、気持ちいいな」
 やはり、それからしばらく会話はなかった。
 しばらく――長くて、短い――三分ばかしの時間だった。
「ねぇ、陽平」
 圭一が呟く。それは聴こえる程度にか細く、しかし鮮明に届く。
「陽平は――彼女さんのことが、嫌い、なの?」
「……それは」
 それは。
 それは、そう。そうだった。
 そんな質問、分かりきった質問だ。
 聞かれる前から、そんな答えは分かっている。
 だから俺は、答えない。
「……どうだろうな」
 曖昧にはぐらかした返答に、圭一は、また、笑った。
 笑う、とても、分かりやすい笑顔。
「嘘だよ。陽平はいつも嘘ばっかりだ。だから、嘘だ。本当は好きなんだろ、僕、知ってるんだ。君が本当に彼女のことを嫌っていたら、僕と旅行なんて行ってやしないってことを。真面目な性格の君だから、そんな不誠実なこと出来ないだろうから。それと、今みたいに嘘をつくのも、君なんだ」
 そのとき、オレンジ雲に隠れた夕陽がちょうど溢れ射した。逆光によってより鮮明に映し出される影になった建物群が色を増して行き、そして、一気に、広がっていく。
「僕は、君のことを好きだよ。それはもちろん、友人として」
「……俺は、別に――」
「さあ、元気を出して!」
 手が触れる。圭一の細い指先が肩に触れ、背中を押される。
 ただ、ただ――それは、極めて滑らかで、他意はなく、優しさに満ちているのは分かっていた。湯船に浸かり温まった体温を感じ、それでも、俺は。
 ――自分のことが嫌いになった。
 露天風呂の向こう側から覗ける宮島の瀬戸内海、水面に揺らめく夕焼けはやけに振らついて、波のさざめきと同じリズムで燦めいて見えた。


 夜、海の幸の豪勢な夕食を味わって、部屋に戻ると、布団が敷かれていた。
「……まだ、早いよな」
「飲もうよ。ほら、奥の間から瀬戸内海が見えるよ」
 広縁の窓を覗くと、真っ暗な波と、対岸から見える人工的な光が散らばっていた。
 俺たちはテーブルに売店で買ってきた果物酒とコップを置いて、椅子に深く腰掛ける。
 圭一はグラスに少量だけ注いで氷を入れ、カラン、とガラスを鳴らす。
「乾杯しよう」
「なにに?」
「これまでと、これからに」
「これから……」
「そう、明日と。明後日」
 そして、明々後日と、一週間後と、一ヶ月後と、一年後と、ずっと続く先の明日へ。
「――乾杯」
 嫌な感情ばかり思い出す。苦い思い出ばかり積もってゆく。
 諸々が混ざり合って、ぐちゃぐちゃになる、彼と、彼女の。
 なのに、なのにこいつは――
 からん、と。
 あぁ。
 からん、からん。
寂しさが鳴る。
聞き慣れない虫の鳴き声に隠れて、寂しさはどこかへ消えていく。
 その音が、その音だけが、俺たちの関係を、この場所まで繋ぎとめていた。
 鈴の音よりも澄み渡った、透明が割れる音に、俺たちは言葉もなく、ただ沈黙していた。
「――なぁ、圭一」
「……うん」
「ごめん。俺さ、お前のこと、ほんの一瞬だけ、でも、疑った」
「……そっか」
「そんで、最低ついでに、聞いてくれ」
 圭一は黙って頷き、酒を呑む。
 それが罪悪感からなのか、もっと単純な逃避からなのか、それとも全く別のところからのものなのか。それでも、俺は間違いなく、彼の優しさに寄り添いたがった。
「お前の家にさ、泊めてくれないか? あんまり長くならないうちに、きっと、新しい家を見つけるから。だからそれまで、頼めないか?」
 俺は言った。
 その寂しさと、沈黙に身を委ねて。
 一人の孤独と二人の距離、もう一つの沈黙と、そして波の音。
 圭一の瞳をしっかりと覗く。
 そこには、輪郭の鮮明な、割れない水晶があった。
「駄目だ」
 圭一が言う。
「君は帰るんだ。帰らなきゃいけない」
 圭一が言う。
「連絡をして、仲直りして、君の家に。君を待つ人がいる家に」
 圭一は、言う。
「僕は、君の事が好きだから、だから――帰るんだ」
 ――あぁ。
 分かっていた。
 全部分かってたんだ。
 お前が笑った理由、旅行なんて言い出した理由、温かな体温の理由。
 お前は、優しいから。
 返事の代わりに、音を鳴らした。
 からん、と。


 さっき、彼女にラインを送った。
 既読になったから、もうじき返事が返ってくるだろう。
 返事の内容は――きっと、きっと。
 隣の布団にはあいつが肌蹴て寝ている。
 あぁ、そうさ。
 俺は深く考えないようにして、布団に潜り込む。
 旅に出たら、いつかは帰らなきゃいけない。
 あいつはきっと、俺を家に帰すために誘ったのさ。
 それはとても普通のことだ。それは逃げなんかじゃない。
 前を見るのに、ちょっとくらい窓の外の風景に黄昏れるくらい、いいじゃないか。
 でも、とりあえずは。一呼吸吐いての深呼吸。
 帰る前に、明日の旅行くらいは、精々楽しむことにしよう。
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