「恐怖の三分」
猫沢 ナナ

私は、耐えられずに目を閉じた。
じわり。じわり。
動いているかわかりにくい。そんな微妙な速度で動き出す。
気持ち悪い。吐きそうだ。
目を閉じても開いても、変わらないらしい。しかし、このままではもたない。仕方ないので、この苦悩と苛立ちが混ざったムカムカを、深呼吸で押しとどめる。
じわり。じわり。
眼下に広がる網ネットから鳥居、神社へお参りする人々。彼らは、私の存在に気づいただろうか。
ぐら。ぐら。
ここでようやく、速度が上がる。
山の斜面を覆う、葉が生い茂った木々が――緑が――目の前に迫り、下へ消えていく。
落ち着いた女性の声が、左を見るように、私の視線を促した。
あぁ。海が、港が、向島が見える。
前に目を戻せば、迫りくる木々。私はなるべく上へ目を泳がせた。
先ほどまで雨が降っていた曇り空へ逃げようとしても、眼下の端に消えゆく木々を見逃せはしない。
あぁ、何ということだろう! 人間は、自分の望む情報しか取り入れることができないはずなのに、何故人間の視界は余計なほど広い!
木々は下へ消えていく。
ぐら。ぐら。
速度も上がっていく。それは、紛れもない事実を示していた。
私は、加速しながら上空へ昇っている。
どんどん高く。本来、鳥にしか許されぬ近道を。
ぐら。ぐら。
足元は揺れる。私の恐怖もお構いなしに。
やめてくれ。やめてくれ。
私は愚か者だ。気づけば、後戻りできないところまで行っていた。引き返すチャンスなら、当に与えられていたはずなのに。何故、それをフイにしてしまったのだろう。何故、己をそこまで過信したのか。
ぐら。ぐら。
誰かが息を飲む。その音に、私は我に帰った。
前を見れば、切り立った崖の上に寺が見える。そして、その近くに、とてつもなく巨大な岩が聳え立っていた。
あの寺も足元へ消えていく。そう思った私は、あることに気づいた。
信じられないことに、私は岩へ、「ポンポン岩」と呼ばれる巨大な岩へ、自ら突っこんでいく。
足元からくる浮遊感が揺らぐ気がした。
大きな岩。ぶつかったら――。岩が間近に迫ってくる。
ぐらり。ぐらり。
さらに加速する不吉なビジョン。
消えゆく木々。迫る岩。
重力に負けて落ちるか。当たって砕けるか。
ぐらり。ぐらり。
岩は近づくほど巨大になる。
誰か助けて。
ぐらり。ぐらり。
もう、ぶつかる――。
私は、耐えられずに目を閉じた。

*    *    *    *    *    *    *    *

じわり。じわり。
まただ。気持ち悪い。
「……空美、もう着いたんやけど」
友人である陽(ひ)菜(な)瀬(せ)の声に、目を開ける。
「着いた……」
「そう。もううちらで最後だから早く降りるでっ」
呆れた陽菜瀬の顔と、苦笑して外で待つガイドさんの顔が見える。
「よかったー。生きてたよー」
「アホか! なんで前方の窓際に立っといて、高所恐怖症になんの! ほぼ目ぇ閉じてたやんか!」
頭に軽くチョップを叩き込まれ、今さらのように私は呻く。
「歩いて行けばよかった……」
「だーかーらー。今日は雨降って階段は危ないから、千光寺山はロープウェイで行くことにしたんやろっ! 全く、たかが三分で」
「三分!? 長すぎて永遠にすら感じた」
「長い長い。あんたがビビリすぎただけや」
そんなことを言い合いながら、私は陽菜瀬とともに乗り場を出てゆく。
恐怖の三分を耐えた私は、そこでようやく解放された。
その後、帰りにまたロープウェイに乗らなければならない事実は忘れて――。

〈END〉
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